ホメオスタシス(生体恒常性)とは、生体がその内部環境を正常状態に安定させ、固体として生存を維持しようとする性質をいう(医科学辞典、講談社、1983)。19世紀の生理学の泰斗ベルナール博士は、固体の外部環境に対して内部環境(体内部の組織液)を区別し、内部環境の恒常性こそ、自由で独立した生体の生きる特徴であるとした。
ホメオスタシスの語義の拡大
その後、生体内部環境恒常性の維持には、自律神経系や内分泌器官、免疫系組織が深く関わっていることが明らかにされ、それとともに、ホメオスタシス(恒常性)語義の内容も深まり広がってきた。
健康であるということは、ホメオスタシスが正常に保たれているということを意味している。病気になればホメオスタシスが乱れ、死ねばホメオスタシスが破綻したことになる。従来、ホメオスタシスという言葉は哲学的な響きが強く、その実態がつかみにくいところがあった。感染症の理解が進み免疫学が発展すると、その実態を具体的に把握できるようになってきた。
我々にとって望ましいことは、病気にかかっても軽く経過し回復も早いということであり、長期にわたれば病気とうまく付き合って、日常生活には支障がないというこであろう。各個人により身長・体重が違うように、アレルギー疾患に罹りやすい人もいれば、乳癌に罹りやすい人もいる。ホメオスタシスの標準は各個体により異なっている。クスリの匙かげんが大切な所以である。
ホメオスタシスと感染症
ハッシュ機構の章で記述されているが、呼吸器感染症や消化器感染症の場合には急性感染症が多い。急性感染症の場合に、生体のホメオスタシスを考えてみたい。たとえば、インフルエンザ感染症では流行時期に感染するとウイルスの侵入増殖に伴い、潜伏期2~3日で発熱、倦怠感、呼吸器症状などの症状が出てくる。その後、サイトカインの産生誘導があり、1週間でCD8+(cluster of differentiation)陽性T細胞(CTL:cytotoxic T lymphocytes)の活性が高まり、ウイルスの増殖は低下し始める。症状は1~2週間続くが、その後回復過程に向かう過程で、抗体産生が増強し、再感染に対する抵抗力を獲得する。そして、免疫反応を収拾する役のサイトカインが誘導されてくる。
免疫系や神経感染症では慢性感染症となる場合が多く、免疫系、神経系の障害が起こると、これを修復することが容易ではない。楽団の指揮者やその重要メンバーが倒れるとホメオスタシス楽団は機能が乱れ、機能停止に陥ることもある。HIV(human immunodeficiency virus)感染の場合、CD4+陽性T細胞が標的となり、長い潜伏期の後、発病する。血友病患者で、HIVに感染しながら現在まで発病していないヒトや症状の進行の遅い患者は、キラー活性の強弱はあっても、CD8+陽性T細胞(CTL)が誘導されていることが多い。
神経系の場合、免疫応答を誘導する抗原提示細胞になりにくい。神経系細胞は再生の効かない細胞であり、広範囲に障害を受ければ死に至るが、一部傷害を受けてそこで症状の進行が停止すれば、後遺症を残して生存する。
B型肝炎やC型肝炎の場合も慢性化することが多く、肝硬変から肝癌に至ることも少なくない。いずれにせよ、慢性感染においてはホメオスタシスは乱れが生じ、円滑に回復に向かうことはない。
食事やワクチンとホメオスタシス
東洋では古くから医食同源といわれて、食事の質と量を加減して病人のみならず、健康人にも食餌療法、あるいは健康食を勧めてきた。また、薬用植物を経験に頼って利用してきた。
科学知識の貧しい時代に、ホメオスタシスを無意識のうちに自覚した温和な処置であるように思われる。
痘瘡(天然痘)は、ワクチンの全世界的普及によりすでに根絶された。200年前、Jenner.E(1796年)は、痘瘡ワクチンを発明して、地域の痘瘡の予防に初めて成功した。弱毒生ワクチンを用いてウイルス感染症の予防に成功した世界最初の例で、その後の人類の福祉に大きな恩恵をもたらした。生ワクチンの効用は、自然感染における免疫応答をコピーさせたもので、生体おけるホメオスタシスを利用したものといえる。痘瘡は急性感染症に属し、一次感染が呼吸器感染症であり、ウイルス血症を介して三次皮膚感染症を起こし、顔や皮膚にあばた面という後遺症を残すと同時に死者も出た。抗体がウイルス血症を妨げ、防御の主役をなすものと考えられている。
小児麻痺(ポリオ)ウイルスは、一次感染が消化器感染症であり、ウイルス血症を介して三次中枢神経感染症を起こす。本ワクチンも、抗体産生により三次感染症を防ぐ。他に成功し
ているワクチンとしては、麻疹ワクチン、風疹ワクチン、流行性耳下腺炎(おたふく風邪)ワクチン、B型肝炎ワクチンがある。B型肝炎ワクチンは、不活化ワクチンで遺伝子組み換え法を用いて酵母で作らせたものである。
薬剤や先端治療法とホメオスタシス
科学の発展は止まるところを知らず、現在、我々は生命科学に関する膨大な知識を持っている。我々はサイトカインそのものを合成して免疫応答を促進・抑制する薬剤として利用することができる。与えられる薬剤は、必要とする組織機関に限局して働き、必要量だけ、必要時間だけ働くことが理想である。しかし、現実にはそこまで行わないのが普通であり、そこに副作用を警戒しなければならない理由がある。
薬剤の効能データは、一般的には動物実験やヒト治療テストにおいて、与えられた時間と動物種、また、限られた患者数において得られたデータを基礎にしているが、これをより多くの患者に長期に与えた場合や、他の薬剤を投与されている患者に併用した場合の成績などは、わからない場合が多い。どんな場合にも、自然に学ぶ、患者から学ぶという心掛けが大切である。我々はまだ、ホメオスタシスの全貌を知るには程遠いのであるから(ソリブジンの副作用の記憶は、まだ新しい。本剤はヘルペス疾患の帯状疱疹によく効くが、抗癌剤5-フルオウラシル(5-FU)と併用した場合5-FUの蓄積が起こり患者が死亡するに至った)。
また、遺伝子治療法や臓器移植、人工臓器など生体の内部環境を直接改善する試みが盛んになってきた。これらの処置は、先天的にあるいは後天的に、乱れた生体のホメオスタシスの是正する目的のために行われるといってよい。
健康の定義
このように見てくると、健康ということを柔軟に捉えなければならないことがわかる。麻疹や流行性耳下腺炎などのウイルス感染症にかかれば、終生免疫が得られ、また、ワクチンを接種して小児麻痺などの感染症を防ぐことができる。日本脳炎などは、衛生環境が改善され蚊の発生が減少すると、日本ではほぼ駆逐された。衛生環境といっても、無菌環境を目指すわけではない。
動植物は共生する微生物その他の寄生体をさけることはできないし、共生する微生物が有用な場合もある。無菌環境に育てば、かえってひ弱なヒトに育ってしまう。病気に一度も罹らないことを健康の目標としたり、基準にするわけにはいかない。ヒトは老いて天寿を全うしたいと願うが、ヒトの不老不死は医学、薬学の目的とするわけではない。
1946年の世界保健機構の宣言の中で、「健康とは、身体的にも精神的にも社会的にも完全に良好な状態であり、病気がないとか虚弱でないということを単純に示すのではない。個人または集団の健康とは、流動する外的環境に対応してホメオスタシスの維持ができる柔軟な状態のことである」と定義されている。
ギリシャの哲人デカルトは、次のように言っている。「健康は疑いもなく、人生最上の幸福であり、他のすべての幸福の根底である」。昔から言われているように、日ごろから逞しい身体、逞しい心を鍛え上げることで、病気になったてもすぐに回復できる身体になれるのである。しかしながら、慢性感染症の多くに関しては、我々はなお有効な防手段を持たないでいる。
